(憩いま専科) 少年日記

誰にでもあったあの頃。思い出すと胸がキュッとなるあの頃。

 これはフィクションです。

 やはり常連のお客様で、詩人がいらっしゃいます。いつも窓際にお座りになります。そしていつの間にか、サラサラサラと。そしてお勘定のときに、伝票といっしょに置いて行かれます。

 そして、それを私がこのように・・・。

 

           若 葉 の 頃

第1話 初恋

 あれは昭和30年代のはじめ頃、私の幼稚園時代のことです。

 早熟でしょうか。お相手は幼稚園の先生でした。

 

 当時、東京都大田区荏原町というところに住んでおりました。

 家に風呂はなく、水道もありませんでした。家の造りは二軒長屋というのでしょうか。

 間取りは4畳半と3畳の和室に、1畳ほどの台所と昔なつかしいトイレ。井戸を取り囲むように、二軒長屋が肩を寄せ合って建っていました。

 

 その当時の私の写真で、玄関先で園服を着て写っているのがあるのですが、後年それを見た娘が、うしろに写っているのは物置かと言ったくらい質素?な家でした。

 

第2話 初恋?

 幼稚園のお泊り保育ってあるじゃないですか。

 

 その日の夜寝るときに、その素敵な先生が幼稚園児の私のおでこをなでてくれまして(正確にはおでこからまぶたにかけて)。なんだかあったかくて、いいにおいがして、なかなか寝付かれませんでした。

 

 その思い出がずーっと残っているのですが、素敵なはずの先生の顔は覚えていないんです。

 アルバムを見返しても、その当時の写真が少なくて、それらしい人が写っているものはありません。

 

 あれって初恋じゃないんでしょうか。

 今でも、私のおでこはあの日の先生の手のぬくもりを覚えているような気がします。

 

 そう言えば、あの日は父がどこからか自転車を借りてきて、布団を幼稚園まで運びました。

 今はもうあまり見かけなくなったものすごくごっつい自転車です。今の自転車がサラブレッドなら、それはまるで馬車馬や農耕馬のような・・・。

 

 その荷台に私の布団を積んで、二人で幼稚園までトボトボ歩きました。

 なにを話したんでしょうねぇ。  

 

第3話 女湯はどうも気恥ずかしい

 もちろん我が家に風呂はなく、親に連れられて行きました。

 着替えと石鹸やタオルを包んだ風呂敷を抱えて、ブラブラと5分ほどだったでしょうか。住宅街が商店街に変わる境目だったような。

 

 のれんをくぐって履物を脱ぎ、下駄箱にしまってあの木の鍵を抜き、ガラガラと戸を開けて番台に入浴料を払う。

 脱衣場は板張りで女湯と男湯の境の壁は全面鏡。たまたま友達がいると、その鏡の前でボディービルのようなポーズをとって遊んだものです。

 

 脱いだ服は丸い大きなかごに入れて、上に目印の風呂敷をかぶせて、そのまま。

 コインロッカーなんてなかったし、なくてもなにも事件は起きない時代でした。

 

 女湯と男湯の境の扉は実に簡素なもので、どちらへも簡単に開くので、子どもが行き来をするたびにバタバタ開いて、当時はまったく開放的でした。

 

 母と行くと女湯へ入るわけですが、銭湯には髪を洗ってくれる専門の人がおりまして、あの頃の女性は髪の長い人が多かったのでしょうね。

 そして女性は髪を洗う場合は、入口で番台に追加料金を払っていたようです。

 

 私は幼稚園児でしたが、どうも女湯は気恥ずかしくて、近所のおばさんやお姉さんは気にならないのですが、自分よりちょっと年上の女の子がいると、どうにもこうにも居場所に困りました。

 もっとも、相手の方はなんとも思っちゃいないんですけどね。

 

 私、あの頃から自意識過剰なんですよ。  

 

第4話 クぅー。うまい。

 銭湯というのは、木の桶のあの「カコーん」という音が良かったですね。

 

 父との場合は、仕事が終わってからなのでだいたい混んでいました。蛇口の数は限られていますから空くまで待つのですが、浴槽のふちに腰掛けまして、「あそこが空くか」「こっちが先か」なんて。

 

 しかし考えてみると、当時はのんびりしていましたね。

 家電製品なんてほとんど家にないから不便だらけだったんだろうけど、時間はゆったり流れていました。

 

 それで混んでいてどうしようもないときは、「ちょっとすいません」とか言って、見ず知らずの人とひとつの蛇口からお湯を交互にくんで体を洗いました。今じゃ考えられませんね。

 

 最近の日帰り温泉では、裸になってそのままいきなり湯船に入っちゃう人を見かけますが、あれはいけません。まず、体にお湯をざっとかけて、とりあえず汚れを落とさないと。それから出るときは、自分の使った桶と椅子はお湯ですすいで元へ戻す。

 

 銭湯の男湯と女湯の仕切りの壁の高さは2m半くらいでしょうか。

 ですから家族で来たときは、出るときに「おーい○○出るぞー」とか「○○ちゃん、出るわよー」なんて大声で呼ぶんです。いい時代でした。

 

 体を拭いて、まだまだポカポカしている状態でビンのコーヒー牛乳を飲みました。

 そうです。片手を腰に当ててゴクッと飲んで、「クぅー。うまい」。  

  

第5話 氷屋、豆腐屋、金魚屋。

 私が住んでいたところの道を隔てた向こうは、パン工場でしたね。

 工場の裏手だったので、塀があるだけで中は見えませんでしたが、いつもパンのいいにおいがしていました。まだ、一般家庭の食卓にはときどきしかパンがお目見えしない時代でしたね。

 

 そういえば、我が家の食卓は足が折りたたみ式の天板の丸いやつでした。

 

 隣りに南極観測隊員の方が住んでいまして、一夜、ご近所が集まって、南極のスライドを見せてもらったことがありました。

 停泊中の観測船に乗せてもらったこともあったような・・・。観測船は「宗谷」でしたね。

 南極の石ももらって、小学校時代までは宝物で大事にしていたのに、あの石はいったいどこへ行ってしまったのでしょう。

 

 その隣りに、同じ幼稚園に通っていた女の子が住んでいました。

 目がパッチリしたかわいい娘でした。胸がときめいたのは幼稚園の先生でしたが、アルバムを見ると、その娘と手をつないでいる写真がずいぶんあります。

 私の娘はその写真を見て、「ガキの頃から、なんていうヤツだ」と。

 

 冷蔵庫はありましたが、電気ではありません。氷で冷やすのです。意味がわかりますか。冷蔵庫の最上部に氷を入れて、その冷気で食品を冷やします。氷はいずれ解けます。補充しなければなりません。

 

 ですから、あの当時はどこの町にも氷屋さんがありました。

 リヤカーに氷を積んでやって来ます。呼び止めると、リヤカーの氷にかぶせてあるカバーをめくって、大きなのこぎりで、シャッ、シャッ、シャッ、シャッと切ってくれます。

 1貫目、2貫目という単位でしたかねぇ。

 

 お豆腐屋さんも来ましたね。ごっつい自転車の荷台に大きな木の箱を載せて、パァープーってラッパを吹いて、夏には金魚売りも来ました。風鈴をたくさん鳴らして。

 

第6話 なつかしの街へ

 この街には、小学校1年生の途中までいました。


 後年、なつかしくなって一人でぶらっと電車に乗って荏原町駅で降りたことがありました。

 30年も過ぎたでしょうか。「たしかこっちだったなぁ」と歩き出しましたが、商店街の活気はあのときのままでしたね。途中で川を渡ります。都会の川ですからそっけない川ですが、水は存外きれいでした。


 あの頃は日本の経済がどんどん活気付いてきて、公害が問題になり始めた頃だったでしょうか。川は臭かったですね。今は、あの臭いもなつかしいのですが。


 商店街を過ぎ、住宅街です。


 「この辺りじゃなかったかなぁ」と、しばらくきょろきょろその辺を見て回りました。人が見たら不審者ですね。

 すっかり変わってしまっていました。こじんまりとした一軒家が立ち並び、当時の面影はどこにもないのです。

 

 「きっと、ここだったんだろうな」とあきらめて帰りかけたときでした。

 家と家の間にポツンと見えました。あの井戸です。

 どちらかの家の敷地内なのでしょう。そばまでは行けそうにありません。


 もちろん今は、使われてはいないようです。遠目にもそれがわかりました。

 井戸を見たら、いろいろなことが走馬灯のように思い出されて、しばらくあの頃の小さな生活圏を散歩しました。

 

第7話 武蔵境へ

 武蔵境というところは、当時(昭和30年代中頃)のんびりしていました。荏原町だって今と比べたら比べようもなくのんびりしていたでしょうに、その荏原町から引っ越していった私にはひどく田舎に思えました。

 

 実はちょっと暗くなりますが、この武蔵境という町で私の両親は離婚をし、そのあおりで、私も6歳違いの弟もひどい少年時代を送ることになります。

 もっとも、そのくだりを事細かに書くつもりはありませんが・・・。

 

 駅の北口からは北に向かってまっすぐに商店街がつづいています。JR中央線は東中野から立川までほぼ一直線に東から西に走っています。だから、この町の商店街は線路に対して垂直です。

 

 パン屋、八百屋、魚屋、パチンコ屋、金物屋、電器屋、そば屋、雑貨屋、洋品店、靴屋、かばん屋、理髪店、美容院、薬局、歯科医、診療所と昔はどこにでもあった商店街がずっとつづきます。

 

 駅から歩いて10~15分くらいだったか。鉄筋コンクリート4階建ての官舎です。団地のはしりです。2DKでした。水洗トイレに家風呂。なんだかうれしかったですね。

 

 武蔵野というのはどこまでも平地で、ほとんど坂がありません。そしてところどころに雑木林があるのです。夕暮れ時にはいたるところから富士山のシルエットが見えました。それもかなりきれいに・・・。いい時代だったですね。


第8話 燃えたけど、いけなかったでしょうか?

 小学校までは30分近くあったような気がします。

 小学校は当時はしりだった団地の中にありました。車がやっとすれ違えるほどの道路一本はさんで隣が中学校でしたね。

 

 家のまわりはまだ、畑が広がっていました。

 芝生畑が多かったです。今思うと不思議なくらいですが、肥料はまだ○○で、まきたてはけっこう臭うのです。


 それでも、芝生が立派になると遊ばせてもらいました。

 芝生の上で転げまわって遊べたなんて、贅沢な少年時代でした。

 

 畑と道路の境にはお茶の木が植えられていました。

 通学路の途中はお茶の木が両側に植えられている、車は通れないくらい狭い一本道がずっと続いていました。


 その途中に幅が3m、覗き込んでいる小学生の顔から水面までの深さが2mほどのどぶ川を渡るのですが、そのどぶ川は学校の方から団地の中を流れ、そして畑の中を流れていました。

 

 きっとやってはいけないことだったのでしょうが・・・。

 下校の途中に町の電器屋さんがあり、その店の裏のゴミ箱に不要になった電球や蛍光灯がたくさん捨ててありました。


 それを各自一個づつ頂戴して、どぶ川に浮かべるのです。そして、誰が一番早く自分の電球を沈めることができるか。

 どぶ川の流れのスピードは、小学校低学年の児童が歩くくらいの速さで、ちょうどよかったです。

 

 燃えましたね。小石を拾っては投げ、拾っては投げ。

 当ったときのあの感じ。シュボッていう音だったかな。けっこう難しいのです。ついに当らなくて、プカプカ行ってしまったことも度々だったのでは。


 やっぱり、やってはいけないことだったのでしょうね。

 ランドセルも背負ったままですからね。


第9話 惚れっぽくて。入院。

 私は惚れっぽい少年でした。

 俗に言う「男勝り」な女の子に弱いのです。

 

 1年生のときは、途中で引っ越してきたので、まずはこの土地に慣れるのに精一杯でしが、2年生になると、ちょっと余裕が出てきたのか、ショートカットで小麦色でいつも半ズボンをはいていた娘が気になりました。

 

 私より運動神経が良かったです。私だって、男子として平均以上だったと思いますが。

 

 私は団塊の世代のしっぽのあたりにいます。私が通っていた小学校にも、急造のプレハブ校舎がありました。

 休み時間の校庭は、児童がウジャウジャいて、ものすごい状況でしたね。

 

 4年生の私は、女の子どころではなくなってしまいました。

 私は家の前の道路で、交通事故に遭ったのです。道路を右左をよく見ずに渡ろうとしたため、右から来た車にはね飛ばされてしまいました。

 夕暮れ時でした。なんとなく薄暗くて危ない時間帯ですね。

 

 ボンネットの上に乗っかって、その後ピューッと飛んだようです。頭は打たなかったのですが、膝から落ちたので2週間ほど入院してしまいました。

 今なら、すぐに救急車でしょうね。でも、そのときの私は「大丈夫です」と、歩いて家に帰ってしまいました。

 

 ところがその晩に、どんどん膝のあたりが腫れてきて、痛い、痛い。

 駅の近くにある赤十字病院の大部屋でした。年代もいろいろで、比較的軽い外科の患者さんばかりなので、明るくてにぎやかな病室でした。

 

 私は年上の従兄弟の影響で、この頃すでに洋楽になかなかうるさかったです。

 この入院中に、同室のおじさんのラジオからよく聞こえてきたのが「夢見る想い」です。♪ノノレター♪ノノレター♪ですよ。

 イタリア語?ですよね。意味は分かりませんでしたが、なんか切ない感じがなんとも言えず・・・。

 

 さらにこの年は、引越しなどもありあわただしかったですね。

つづく

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